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「正しく恐れる」と「正当にこわがる」


第一回

「放射能を正しく恐れる」というフレーズは最近、マスコミでよく聞かれるフレーズだ。
 専門家やコメンティターによって、「放射能の危険性について正確な知識を知り、必要以上に
神経質にならない」というような文脈で使われることが多い。七月一日に行われた、日本学術
会議の緊急講演会でもテーマの一つに掲げられている。

「正しく恐れる」というフレーズの出典は、寺田寅彦の随筆であることは知っていた。
「物事を恐れすぎたり、恐れ過ぎなかったりするのではなく、正しく恐れることが大切だ」
 みたいな文脈だと思っていた。先月出かけた市民講座でも、講演者が「寺田寅彦」の名前を
述べながら、引用していた。

 しかし、この「正しく恐れる」について、作家の佐伯一麦さんが、
「浅間山の爆発についての随筆の中での寅彦は、『正当にこわがることはなかなかむつかしい
ことだと思われた』と記している。正しく、ではなく正当に、です。科学者たちの言うニュアンスと
は正反対のように私には思えます」【朝日新聞六月二七日 二八面】と述べている。

 気になったので、出典を調べてみた。出典は、「小爆発二件」と題する昭和十年に書かれた
随筆で、岩波文庫の「寺田寅彦随筆集 第五巻」に所収されている。
 少々長くなるが、周囲の文脈まで含めて、引用してみる。

「一度浅間の爆発を実見したいと思っていた念願がこれで偶然に遂げられたわけである。浅間
観測所の水上理学士に聞いたところでは、この日の爆発は四月二十日の大爆発以来起こっ
た多数の小爆発の中でその強度の等級にしてまず十番目くらいのものだそうである。そのくら
いの小爆発であったせいでもあろうが、自分のこの現象に対する感じはむしろ単純な機械的な
ものであって神秘的とか驚異的とかいった気持ちは割合に少なかった。人間が爆発物で岩山
を破壊しているあの仕事の少し大仕掛けのものだというような印象であった。しかし、これは火
口から七キロメートルを隔てた安全地帯から見たからのことであって、万一火口の近くにでも
いたら直径一メートルもあるようなまっかに焼けた石が落下して来て数分時間内に生命をうし
なったことは確実であろう。
 十時過ぎの汽車で帰京しようとして沓掛駅で待ち合わせていたら、今浅間からおりて来たらし
い学生をつかまえて駅員が爆発当時の模様を聞き取っていた。爆発当時その学生はもう小浅
間のふもとまでおりていたからなんのことはなかったそうである。その時別に四人連れの登山
者が登山道を上りかけていたが、爆発しても平気でのぼって行ったそうである。「なになんでも
ないですよ、大丈夫ですよ」と学生がさも請け合ったように言ったのに対して、駅員は急におご
そかな表情をして、静かに首を左右にふりながら「いや、そうでないです、そうでないです。――
いやどうもありがとう」と言いながら何か書き留めていた手帳をかくしに収めた。
 ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはな
かなかむつかしいことだと思われた。」(傍点は引用者による)
         

第二回

 佐伯氏の指摘通り、寺田寅彦は「正当にこわがることはなかなかむつかしい」と言い、その言
葉の向く先も、「爆発しても平気でのぼって行った登山客」や「『大丈夫ですよ』と請け合ったよう
に言う学生」である。

 また、寺田寅彦は、自分自身も浅間山の爆発について、
「人間が爆発物で岩山を破壊しているあの仕事の少し大仕掛けのものだというような印象」程
度にしか感じていなかったことを述べ、その上で、
「万一火口の近くにでもいたら直径一メートルもあるようなまっかに焼けた石が落下して来て数
分時間内に生命をうしなったことは確実であろう」
 と反省している。

 以上を考えるに、やはり、寺田寅彦は、
「物事の危険性を現実以下にしか捉えない人間の感性」を指摘し、きちんと「正当にこわがる」
ことのむずかしさを述べているように考えるのが正当な読解ではないか。
 決して、昨今の科学者が引用するような「むやみに恐れることの非科学性」を訴えるための
文章には思われない。
 朝日新聞で佐伯一麦氏が指摘した通りであろう。

 だからといって、現在の科学者たちの言う「(放射能を)正しく恐れる」という言論が、それほど
間違っているようにも思われない。まあ、それなりに(あくまでも「それなりに」)当然の言葉にも
見える。
 寺田寅彦とは、まったく別の言論として、その正否を問えばよいという考えもある。

 ここで、問題としたいのは、「(放射能を)正しく恐れる」という言論の正否ではない。
 問題にしたいのは、「正当にこわがる」と言った言葉が、いつのまにやら「正しく恐れる」と変
換され、その文脈も、正反対の意味でつかわれるようになった、「無意識の重力」のようなもの
だ。
         
第三回

「正当にこわがる」という原形から「正しく恐れる」への完成形への変換について、まず、「こわ
がる」と「恐れる」の違いを考えてみたい。
「恐れる」より「こわがる」には、相対的に感覚的な恐怖が感じられる。この感覚的な「こわが
る」を「恐れる」に変換したとき、「感覚的な感じ方」は否定され、客観的で科学的な姿勢が強調
されていく。「今、放射能の問題を前にして、我々に求められることは、感覚的に『こわがる』こ
とではなくて、客観的に『恐れる』ことである」というように。
 つまり、多くの科学者が言う「放射能について冷静に判断しなければならない、過大な危険視
をする必要はない」という文脈には、「こわがる」という言葉にある情緒性は不向きで、「恐れ
る」にある「客観的趣き」が必要だったのだろう。考えてみれば、冷静に「こわがる」ことなどでき
はしない。「こわがる」と言ってしまったとき、すでに「こわがる」ことは前提となってしまうが、
「(正しく)恐れる」と言えば、「恐れない」姿勢もまた、あり得る姿勢の一つとして猶予されるの
だ。

 それなら、なぜ、「正当に」を「正しく」に変換する必要があったのか。むしろ、「正当に」の方
が客観的な趣を纏っているようにも思われる。
「正当に恐れる」までの変換で十分ではなかったか?
 答えは否である。
 それは、「正しく恐れる」という完成形と、「正当に恐れる」という中間形を比べてみればよい。
「正しく恐れる」は、「恐れる姿勢の正しさ」を言及している言葉であるが、「正当に恐れる」は
「恐れる度合いの適切さ」を言及している言葉である。
 つまり、「正当に恐れる」には、すでに「どの程度であれ、恐れる」ことが前提として含まれてい
るのだ。一方、「正しく恐れる」には、「恐れる必要はない」も姿勢の一つとして含まれる。
「こわがる」が、多くの科学者たちの「過大な危険視をする必要はない」という文脈に不向きで
あったのと同様に、「正当に」という言葉に含まれる「危険視することを前提としたニュアンス」
も、また、彼らの文脈には不向きであったことが、窺い知れる。
 かくして、「こわがる」は「恐れる」に、「正当に」は「正しく」に変換されるというわけだ。

 一語一語、分断して考えてみたが、最後に「正しく恐れる」と「正当にこわがる」という、フレー
ズ全体同士で比べてみよう。
 ここで、指摘したいのは、「正しく恐れる」という完成形と、「正当にこわがる」という原形とが、
それぞれに持つ「傾き」のようなものである。どちらのフレーズも、「危険視」することについて一
見、中立的で、なんの傾きもないように見える。しかし、実は、いままで見てきたように、「正しく
恐れる」は「恐れない姿勢」まで含み、「正当にこわがる」は「こわがることを前提」としていると
いう「傾き」を持っているわけだ。となると、相対的に「正しく恐れる」は、「冷静に対処し、必要以
上に危険視することはない」というニュアンスに傾いていて、「正当にこわがる」は、「応分に危
険視することが必要である」というニュアンスに傾いていると言っても良いのではないか。
 たとえば、「正しく恐れましょう」と言われたなら、「そんなに恐れる必要はないんですよ」という
方向に導かれ、「正当にこわがりましょう」と言われたなら、「甘く見てはいけませんよ」という方
向に導かれるように、感じないだろうか。
 当然、用意された結論に向けて、「正しく恐れる」と「正当にこわがる」は、自然と使い分けら
れるだろう。

第四回

「誰がどう悪い」と言っているのではない。
 僕が気になるのは、第二回で述べたように、いつのまにやら「正当にこわがる」を「正しく恐れ
る」と、結論に都合よく読み変えてしまっている「無意識の重力」のようなものだ。

「正しく恐れる」という言葉は、非常に耳障り良く、客観的な装いを纏っている。しかし、実は、徹
底的に「結論ありき」の言葉だったのではないか。
 その「結論」に向けて、多くの言論が「無意識に引きずられて」いく。引用していた科学者は、
寺田寅彦が違う意味で使っていたと知ったとき、どんな思いを抱くのだろう。「別に寺田寅彦と
は関係なく、正しいことを言っているだけ」と思うのだろうか。自分をひきずった「無意識の重
力」には気付かないのだろうか。

 第一回の冒頭で、「『放射能を正しく恐れる』というフレーズは最近、マスコミでよく聞かれるフ
レーズだ」と書いた。
 しかし、よくよく考えてみると、実は「まさに最近」は、この「正しく恐れる」はあまり聞かれなくな
ったようにも思う。それは決して「正しく恐れる=そんなに恐れなくてもよい」ということを、言う必
要がなくなったということではない。むしろ、「正しく恐れる=そんなに恐れなくてもよい」という言
葉が、説得力を持たない状況が訪れてしまったということではないか。第二回には、「現在の科
学者たちの言う『(放射能を)正しく恐れる』という言論が、それほど間違っているようにも思わ
れない」とも書いたが、「正しく恐れる=そんなに恐れなくてもよい」というように読み解いたと
き、「正しく恐れる」という言論は、むしろ間違っていたとも捉えられる。
 福島第一原発が、「五重の壁」はおろか、実はメルトダウン(メルトスルー)していたことが分
かり、ここ半月程は、セシウム汚染牛の問題が、大きく報じられるようになった。これは、以前
「正しく恐れる」ということを主張していた科学者たちの予想をはるかに上回る事態だろう。
「正しく恐れる」ということを主張していた科学者たちは、まさに「正当にこわがり損ねた」のかも
しれない。
「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはな
かなかむつかしいことだと思われた。」
 科学者自ら、引用する寺田寅彦の文章を、まさに体現してしまったようにも思われる。

第五回

 地震も津波も恐ろしい。原発の事故も恐ろしい。と、同時に、いつの間にか、僕達を引きずっ
ていく「無意識の重力」「見えない引力」のようなものも、また恐ろしいと思う。
 起こってしまったことに抗うことはできない。しかし、起こったことを分析することはできるし、こ
れから起こることを考えることはできる。そのとき、「無意識の重力」に引きずられないようにす
ることも出来るはずだ。
 しかし、この見えない力は、例えば「正当にこわがる」と「正しく恐れる」のような、ほんの僅か
な隙間に潜むようである。自然と、無自覚に、巧妙に姿を隠しながら、僕達を引きずろうとす
る。もっとも巧妙なウイルスは、宿主に感染していることを気付かせないウイルスである。

 最後に、もう一度、寺田寅彦の言った原形「正当にこわがる」に戻って終わろう。 
 思えば、この「正当にこわがる」は奇妙な言い方だ。「正当に」という知的な語彙と、「こわが
る」という感覚的な語彙が同居している。
 しかし、この知性と感性の同居こそが、肝要なことなのではないか。巧妙に潜む「無意識の重
力」に抗うための大きな武器は、「こわがる」という言葉の底にあるような、僕たちの原始的な
感性である。そして、それを保証・検証するための「正当な知性」である。
「なんだかおかしい」「少し違和感がある」……そのような「感性」を、知的ではないものとして、
まったく排除してしまうとき、僕達は、知性の仮面をかぶった「無意識の重力」に、いつの間に
か飲みこまれていくような気がする。

                          (2011年7月29日〜8月1日)

    


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